東北から注文を頂いていたモノの製作が完了したのでお届けに。
今回は2か所。
震災から10年たった太平洋側の様子も見ておきたいと思ったので、海岸線をのんびり北上していく。
時間的な余裕がなかったり、積み荷が満載で極力揺らしたくない時は高速道路も使うが、基本的にはいつも下道移動を選ぶ。
日常と違う景色を楽しむせっかくの機会。
防音壁に囲まれ、景色の少ない高速道路はを走っているとすぐ飽きる。
「移動は旅」としてしまえば、仕事の中に遊びの要素が含まれ、いい気分。
経費も少なくなるしで、いいコトが多い。
何時間か余分に時間が掛かるのなら、何時間か前に出発すればいい話。
出発した時は少し雨が降っていたけど、海岸線に入る頃には青空が広がってきた。
雨上がりだからか、少し濃い目のいい色。
この日はうねりも小さく穏やかな雰囲気だったが、のんびりと波乗りを楽しんでいる人達の姿がチラホラと。
北日本の日本海岸は千葉から青森までいいポイントがたくさんあって、サーフィンを楽しんでいる人達の姿をよく見かける。
海産物は魅力的を超えて魅惑的。
牡蠣にウニにホヤにあんこう、さんま、タラ、イカ、ワカメにフカヒレ。
海を眺めながら、東北の肴で日本酒でも飲んだら最高だろうな。
ホヤは鮮度が大事だけど、ホントの獲れたてピチピチは絶品なんだろうか。
ホヤ喰いながらチビチビゆっくりやってる間に自分自身がとろけてしまって、飯が終わったら身長が少し縮んでいるかも。
来年の夏にでも岩手へなんかの納品があればいいな。
産地の旬の味を感じてみたい。
トコトコ走っている内に、茨城を抜けて福島に入る。
いわき、広野、楢葉を抜けると富岡町。
ここからしばらく、原発事故の影響が未だに色濃く残る地域。
国道6号線沿いでは富岡町、大熊町、双葉町が帰還困難区域に入る。
少し内陸部では浪江町、葛尾村、飯館町、南相馬市も帰還困難区域に指定された区域が残る。
原発事故によって土地と時間という貴重なものを奪われ続けて、10年が過ぎた。


6号線は6年ほど前に通ったが、帰還困難区域はその時の景色とほぼ変わっていない。
ただ、避難指示が解除された地域の景色は随分変わっている。
富岡町の中心部(期間困難区域の南側で2017年4月に避難指示解除)をグルッと回ってみた。
津波に飲まれた駅も再建され、新築された建物もかなりの量。
そして、人の多さに驚いた。
ただ、よくよく見てみると、どうも元々の住民はほんの一部の様子。
そこにいる人の多くは、土木、建築の工事関係者、東電関係者であるようだ。
新たな街づくりの様子は違和感も感じる。
街の中心部に団地のような集合住宅をいくつも作っているが、元の住民の人たちがどれだけ住みたいと思うだろうか。
緑と青の色彩豊かな景色の中で、土地的な余裕を活用して農業、漁業、林業を営んできた人たちの過去の営みとは随分乖離がある。
「復興」という行為の中に、避難している人たちに寄り添う気持ちと交付される補助金への貪欲さが入り混じっている。
常に認識することを心掛けて、出来るだけ切り離しておかないと、出来上がりは大したものにはならないと思う。
あつかましさを含んだ街づくりでは「復興」は名ばかりになるのが見えている。
海を眺めながら車を走らせると、南相馬市、相馬市、新地町、山元町、亘理町と津波の被害の大きかった地域に入る。
6年前には被害を受けたまま放置された建物が次から次へと目に入ったが、随分と整理されていた。
パッと見ただけの雰囲気ではもう被災地とは感じない。
所々には被災した建物が保護されている。
山元町の中浜小学校。
津波は青い標識の所まで来たとのこと。

屋根付近まで襲った津波は二階の天井の一部をはがしている。
震災当日は、生徒、職員、地元の人など90人がまず体育館に避難避難し、津波警報を受けて屋上にある倉庫に移動し、全員助かったとのこと。

このような建物は一番の注意喚起になるから、出来るだけ長く残しておいた方がいいと思う。
サイズ的には大きくなるか小さくなるかは分からないけれど、津波はいつの日かまたやってくる。

この小学校の周りはまだ原っぱのような状態だったが、農産物の生産を再び始めている土地が増えている様子。
塩害に強いようで、露地栽培のねぎ畑が多く見られた。
畑も倉庫もきれいにされている様子からは、生産者の土地への思いが感じられた。
仙台を抜けて、登米市の方向にハンドルを切る。
納品に来ているんだけど、初日はのんびり走るだけ。
積み荷は降ろず、友人夫婦の家へ向かう。
続く。
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